仕事の未来 インタビュー・対談 人財 働き方 スペシャル対談:奥村武博氏、アデコ 川崎健一郎

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阪神タイガースに投手として入団後、4年で選手生活にピリオドを打ち、新しいキャリアを模索しなければならかった奥村武博氏。
苦労の末、現在は公認会計士として活躍する奥村氏とアデコ代表取締役社長の川崎健一郎が、全2回にわたり、スポーツ選手の「セカンドキャリア問題」と、夢や目標をもつことの大切さ、働く人のこれからのキャリア選択のあり方について語り合いました。

自分には野球以外何もなかった

川崎

プロ野球選手から公認会計士への転身というのは前例がないのではないでしょうか。現役生活を引退されたのは何歳の頃だったのですか。

奥村

22歳でした。岐阜県の商業高校からドラフト6位で阪神タイガースに入団したのですが、けがが多く、4年で戦力外通告を受けてしまいました。その後1年間、打撃練習の投手をやって、野球から完全に身を引きました。

川崎

すぐに公認会計士を目指したのですか。

奥村

いえ。最初は友人と一緒にバーの経営を始めたのですが、特にビジネスプランがあったわけでもなく、私自身本当に何もできなかったので、1年ほどでやめてしまいました。できることといったら、メロンの種を掻き出したり、シイタケの軸を取ったりすることぐらいでしたから。野球の世界を離れて初めて、自分には野球以外何もないということに気付かされました。

この先どうしようかと真剣に悩む中で知ったのが、公認会計士の資格でした。高校時代に簿記検定2級を取っていたので、「これならいけるかもしれない」と思いました。ちょうど試験制度の変更で、受験できるようになるタイミングだったので、資格取得を目指して勉強を始めました。

川崎

それから9年かけて合格を手にしたわけですね。たいへんな努力だったと思います。

奥村

それまで野球漬けの日々を送っていたので、長時間机に向かう習慣がなく、最初は勉強すること自体が本当にきつかったですね。同じところに座っているのは、新幹線移動の2時間半が最長でしたから(笑)。それでも少しずつ勉強して、2013年に何とか合格することができました。

川崎

公認会計士の資格を知ったきっかけは何だったのですか。

奥村

当時付き合っていた彼女、つまり今の奥さんが、いろいろな資格が載っている本を買ってきてくれたんです。「資格を取りなさい」ということではなく、「もっと視野を広げなさい」ということだったのだと思います。当時の私は世の中のことに本当に無知で、どんな職業があるのかも知りませんでした。その本を見て、「こんなにたくさんの仕事があるんだ」と驚きました。

川崎

それが転換点になったわけですね。資格が取れるまでの9年間は、ほかの仕事をしていたのですか。

奥村

最初の2、3年は、調理場、宅配、インターネットカフェなどのアルバイトをしていました。その後、通っていた資格学校に就職して職員になりました。資格学校で働きながら資格の勉強をすれば、シナジーが期待できると思ったからです。

川崎

それはとても重要なポイントだと思います。新しい世界に近付くために、最適な環境を選択してキャリアチェンジにつなげていったわけですよね。資格に無関係のアルバイトをしていたのでは、自分が向かいたい世界には近付けないですよね。

反対されることで本気度が試される

川崎

プロ野球選手を目指したのは何歳の頃だったのですか。

奥村

野球を始めたのが6歳の頃で、そのときからプロの野球選手になりたいと思っていました。

川崎

6歳からの夢を達成されたわけですね。しかし、その夢がついに叶ったのに、4年で途絶えてしまった。それはたいへんなショックだったと思います。そこから新しい目標を目指すことができたのはなぜだったのでしょうか。

奥村

身近な人が新しい視点を与えてくれた。やはり、あそこが始まりだったと思います。あの資格の本がなかったら、どこに向かっていいかまったくわからなかったでしょうね。

川崎

気付きを与えてくれる人の存在がいかに重要かということですね。

奥村

逆に、反対してくれる人がいたことも大きかったと思っています。私は、高校に進学するときもプロに入るときも、親に反対されました。しかし、それがあったために、自分で熟考して、自分で決断することができました。

資格を目指そうと思ったときにも反対意見があったのですが、その反対を押し切ってまでやる気があるのかどうかを自分の心に聞いて、「やる」と自分で決心ました。今思えば、そのプロセスこそが重要でした。あれがあったから、辛いときも人のせいにしたりせず、自分の力で乗り越えることができたのだと思います。

川崎

もし周りのみんなが賛成していたら、「みんなが賛成したからこの道を選ぶ」となってしまうかもしれない。そうして、自分の心が決まっていないうちに走り出してしまうかもしれない。むしろ反対があったほうが、自分の本気度が試される──。これは就職や転職するときにも共通する部分がある、示唆に富んだお話ですね。

夢や目標をもつことの大切さ

奥村

川崎さんが社長を目指されたのには、どんなきっかけがあったのですか。

川崎

将来社長になりたいと思ったのは17歳のときでした。高校時代にバスケットボールをやっていたのですが、あの競技は、時間に関する細かなルールがたくさんあるんです。24秒ルールとか、8秒ルールとか。それもあって、10代の頃から時間に対する感覚が鍛えられたと思っています。

奥村

それは野球にはない感覚ですね。野球は基本的に時間無制限ですから。

川崎

それで部活動を引退して将来の職業について初めてイメージするようになったときに、「時間を自由に使える仕事をしたい」と考えたんです。時間をどれだけ有効に使うかが人生を決めると思ったからです。最も時間を自由に使える仕事は何か。やはり社長だろう──。そんなふうにして、社長になることを目標に定めました。

しかし、それは非常に自己本位の社長像だということに後になって気付きました。29歳のときです。勤めていた会社から独立するチャンスが来たのですが、それまで一緒に頑張ってきた社員の人たちは、会社から去ろうとしている私を応援してくれなかったんです。そのとき初めて「自分の生き方は間違っているのかもしれない」と思って、半年くらい悩みました。

視点が変わったのは、私の場合も本との出合いでした。死ぬときに人生を振り返って、人の役に立てた、世の中の役に立てたと思えるかどうかが一番重要である。そんなことがその本には書いてありました。そこからですね、自分の中の社長像が変わったのは。自分のためだけに生きる人生はハッピーではない、人のために働ける社長になろう。そう思いました。

33歳で社長になることができたのですが、17歳のときに思い描いていた社長像とは中身がまったく変わっていました。

奥村

17歳から16年かけて社長になられたわけですから、私の9年よりも長いですね(笑)。

川崎

そうですね、確かに(笑)。奥村さんはプロ野球選手、私は社長という目標があったから、長い時間をかけて努力することができたわけですよね。仕事では常にモチベーション、つまり「やる気」が大きなテーマになります。夢や目標があればやる気は自ずと出てくるものです。しかし現実には、夢や目標がない人が世の中にはたくさんいます。そういう人たちは、どうすれば夢や目標をもつことができるのか。私はよくそんなことを考えます。奥村さんがプロ野球選手を目標にしたのはなぜだったのですか。

奥村

家庭環境ですね。兄が野球をやっていて、父がそのチームのコーチでした。周りに野球があったこと、それからプロ野球選手への憧れがあったことも大きかったと思います。

川崎

環境や憧れがあったとしても、夢を描いたのは奥村さんご自身ですよね。その人の人生はその人のものなので、勝手に夢や目標を与えることはできないし、仮に与えられたとしても、人から与えられた目標からエネルギーは生まれません。いかに自ら夢や目標を見つけることができるか。そのサポートをすることが、これからの時代には極めて重要になってくると思うんです。

奥村

同感です。私自身、そのお手伝いをぜひしたいと思っています。最近、講演で「越えられない壁は、自分で作った壁だけ」とよく話しています。「無理」と考えた瞬間に壁ができる。自分で自分にブレーキをかけてしまう。そうならないためにも、夢や目標を自分自身でしっかり思い描くことが大切だと思います。それができれば、いろいろな困難に立ち向かっていけるはずですから。そのサポートをしたいと思ったのが、アスリートデュアルキャリア推進機構を立ち上げた理由の一つでした。

スペシャル対談:奥村武博氏、アデコ 川崎健一郎

Profile

奥村武博
Takehiro Okumura

オフィス921
スーパーバイザー
アスリートデュアルキャリア推進機構 代表理事

1979年生まれ、岐阜県出身。土岐商業高校から97年ドラフト6位で阪神に入団。制球力の良さから野村克也監督に「小山正明2世」と称されるも、度重なるけがにより2001年現役引退。打撃投手や飲食業を経て、公認会計士を目指すことを決意。フルタイムで働きながら学習を開始し、13年の公認会計士試験に合格。17年6月に公認会計士登録が完了し、日本で初めてプロ野球選手からの公認会計士となる。監査や税務業務に携わるかたわら、講演や執筆など、公認会計士資格の認知向上のための活動や子供たちへ会計を教える活動なども行っている。

川崎健一郎
Kenichiro Kawasaki

1976年生まれ、東京都出身。99年青山学院大学理工学部を卒業後、ベンチャーセーフネット(現VSN)入社。2003年事業部長としてIT事業部を立ち上げる。常務取締役、専務取締役を経て、10年に代表取締役社長&CEOに就任。12年、VSNのアデコグループ入りに伴い、日本法人の取締役に就任。14年から現職、VSN社長兼務。